ベイエリアの歴史(11) – イギリスとアメリカ

イギリスの午後 ゴールドラッシュから1870年代まで、カリフォルニアは怒涛の四半世紀を過ごしましたが、その後しばらくの間、歴史教科書にはあまり目立ったイベントが記述されていません。農業が成長し、交通や水道などのインフラが整備され、移民の流入は続き、順調な進歩が続いていました。

一方、大陸の向こうの米国東部と、そのさらに大西洋の向こうのヨーロッパでは、歴史の舞台が大きな軋み音をたてて回っていました。イギリスはヴィクトリア女王の長い治世にあたり、最盛期を迎えていましたが、1850年頃からその覇権がやや緩みだし、真昼を過ぎた「午後」の時代にはいっていました。キンドルバーガーはその「緩み」の背景をいくつか挙げており、(1)産業革命以来の成功体験が固定化され、経済・社会が保守化してしまい、産業革命期の発明をもたらしたアントレプレナーが出現できなくなってしまったこと、(2)蒸気船と鉄道によって物流効率が劇的に向上して、アメリカその他各国の安い穀物が流入(=19世紀版のグローバリゼーション)して、欧州大陸各国で保護主義が強まってイギリスの製品輸出が鈍ったこと、などだったとしています。(1)はなにやら、最近の日本にもあてはまりそうです。

アルマダ海戦に敗れてから後も、スペインが時代遅れな2G経済をせっせと拡大し続けたのと同じように、イギリスはこの後、保護主義に転じた欧州を捨て、矛先を大英帝国内のインド・アジアに転じてせっせと投資し、植民地を「キャプティブ・マーケット」とする3G経済にますます突っ込んでいきます。

欧州大陸では、1871年に国内を統一してドイツ帝国が成立し、アメリカ・日本に続き、「4G経済の同期生」がもうひとつ歴史に登場します。

でもアメリカは「厨二病」

スペインとイギリスは直接対決したので、その覇権の移行はドラマチックでしたが、イギリスからアメリカへの移行は、まさに子供が親を体格でも経済力でもだんだんと追い越す過程に似ていました。アメリカという子供は、移民の流入によってオーガニックな成長よりもずっと速いスピードで人口が増え、その人口を「市場」として4G経済を発展させていました。そして、アメリカのアントレプレナー達は、その急成長する国内市場を背景に、次々と新しい技術を発明していき、陽が傾きだしたイギリスに徐々にとってかわります。

似たような技術を同じ頃に別な人が考えつくというのはよくあることで、革新的な技術が一気に同時に世に出る、という時期がときどきあります。アメリカの東部は、そんな「技術爆発の時代」を迎えていました。

産業革命を文字通り推進した動力は「蒸気機関」であり、イギリスはその動力の原料となる石炭が国内でとれるという優位をもっていました。それに代わる「動力」として、まず「電気」に関わる技術がこの頃急激に発達します。

ご存知トーマス・エジソンは、1877年に蓄音機、1879年に竹のフィラメントを使った電球を発明しました。そういうわけで、同時多発的に電気分野でいろいろな発明があったので、例えば「白熱電球」そのものは実はエジソンより1年前に別の人が発明していたり、「電話」はアレクサンダー・グラハム・ベルが1876年に作ったとはいえ、初期の電話の仕組みにはエジソンが発明した技術が使われていたり、エジソンは「映画」を発明したと言われるけれど他にも「発明者」と言えそうな人がいてはっきりしないなど、本当のところ「誰が一番最初に発明したのか」は微妙でした。技術を高く買ってもらえるチャンスも多かったので、特許出願競争や訴訟沙汰も多発しました。

そんな中エジソンが歴史に名を残したのは、「技術を特許などではなく会社の形で物理化し、他より早く事業を成功させてデファクト・スタンダードを握る」というやり方である程度の成功を収めたからです。伝統的な「特許の仕組み」が機能しなくなった最近のシリコンバレーとも似ていますが、この頃はなんせ「泥棒男爵」の時代ですから、競争相手を潰すためならむちゃくちゃなことも平気で行われており、エジソンはあちこちでけんかを売ってまわっておりました。

特に有名なのが、エジソン対テスラの「電流戦争」です。1878年にエジソンはニュージャージー州メンロパーク(シリコンバレーではありません)で実験室を開設し、これが現在のGE(ゼネラル・エレクトリック)の前身となりました。この頃にエジソンが用いたのは直流電力でしたが、電圧を変えられず長距離送電ができなかったので、エジソンはニューヨーク近郊などの都市の近くに、小さな電力会社をたくさんつくりました。このエジソン+GE社陣営に対し、かつてエジソンの部下だったニコラ・テスラと、彼をバックアップするウェスティングハウス社は「交流電力」の技術を開発して対立。エジソンは交流だと感電死の危険が高いというネガティブ・キャンペーンを張り、部下を使ってわざと動物を感電死させたりするなど、えげつない「ヤラセ」手法を駆使してテスラをいじめました。結局は、ナイアガラの滝の発電所とそこからの長距離送電のプロジェクトをテスラ陣営が勝ち取って1893年からプロジェクトが始まり、現在に至るも交流が基本となっています。ここではエジソンは負けてしまいましたが、現在もエジソンの名を冠した電力会社は各地に残っており、GEは現在でも大手企業です。一方のテスラは長く忘れられていましたが、最近は彼の名をつけた美しい電気自動車が、シリコンバレーでどんどん増えています。(えっと、ゴジラシリーズにもあったような・・←あれはモスラ(^o^;))

ちなみに、同じように「事業による技術の固定化」のために、グラハム・ベルが同じくニュージャージーに作った電話会社AT&Tは、初期の頃、ライバル会社の設備を電話局から引きずり出し、往来の中央に積み上げて燃やしていたそうです。

図体ばかりでかくなっても、まだ大人になりきれておらず、なにかと野蛮だったこの頃のアメリカは、「厨二(中二)病」の時代だったということでしょうか。

<続く>

出典: C.P.キンドルバーガー「経済大国興亡史」、Tim Woo "The Master Switch: The Rise and Fall of Information Empires", Wikipedia